今回は総合音楽プロデューサー、音楽プロヂューサーとして活躍中のつんく♂について書いていこうと思います。
つんく♂と聞くと皆さんはモーニング娘。及びハロー!プロジェクトの総合プロデュースを務めていて音楽プロデュースのイメージが強いかと思います。しかし、デビューはバンドグループでした!「シャランQ」というグループ名で当時はかなりの人気を博していました。
「シャ乱Q」とは?
1988年12月:
はたけ、まこと、たいせー、しゅうとともにシャ乱Qを結成。
シャ乱Q(しゃらんキュー)は、日本のロックバンド。
大阪府出身者の近畿大学の学生を中心とした5人で結成されたバンドです。
つんく♂は主にボーガル、作詞、作曲を担当していました。
「シャ乱Q」の名前は、メンバーが所属していたアマチュアバンドの名前「シャッターズ」(しゅう、まことが所属)「RAM(乱)」(つんく、しゅう、たいせーが所属)「QP(キューピー)」(はたけが所属)を寄せ集めたものでした。
デビュー当時は「このバンドは何なんだ?変な名前だし、メイクや衣装も独特、1発狙ってデビューしてきたか?」などと素人の私は思ったものでした。
1992年:
デビュー当時、所属事務所を巡って多くの芸能事務所が争奪戦を繰り広げたが(音楽のプロにはシャランQの才能は既に認められていたのですね!お恥ずかしい).最終的にアップフロントエージェンシーが選ばれた。
後につんくが語ったところによると、アップフロント入りには「KAN(1991年の第33回日本レコード大賞受賞者)が所属している」ことが決め手となったという。
1992年7月22日:
発売されたデビュー曲は「18ヶ月」です。
BMGビクターからのメジャーデビューしましたがデビュー後長らく低迷期が続きます。
泣かず飛ばすの時期はメンバー全員悩み焦っていたでしょう。
1994年:
「これが売れなければ最後」と意気込んだ「上・京・物・語」が、ラジオへの必死の売り込みが功を奏し、スマッシュヒット。
マネージャーもメンバーも必死で営業に回ったのが伺えます。同年の「シングルベッド」がロングセラーとなりミリオンセールスを記録。
しかし、ここでも昔のしきたりが邪魔をし関西のラジオ局でシャランQの楽曲を全て聴けるのは1局だけでした。
その頃の背景には地元・関西のABCラジオ、OBCの番組では「シングルベッド」以前の楽曲は一切オンエアされなかったが、これはつんくが「MBSヤングタウン」でパーソナリティーを務めていたためで、またMBSラジオでパーソナリティーをやっているアーティストの楽曲はABC、OBCでは排除されるという暗黙の了解があったためです。
しかし、長く辛い下積み時代にも終わりが見えてきました!
「シングルベッド」以降は破竹の勢いです。「My Babe 君が眠るまで」、アルバム「勝負師(ギャンブラー)」もミリオンを記録
「ズルい女」で「全日本有線放送大賞」グランプリを受賞し、同じく「ズルい女」で第46回NHK紅白歌合戦にトップバッターとして初出場しました。
余談ですが、1991年NHK「BSヤングバトル」第2回グランプリを受賞した(受賞曲:「ラーメン大好き小池さんの唄」)。は若い世代の方も知っている方がいるのではないでしょうか?
1996年シングル「いいわけ」をリリース、10月には話題となっていた派手なステージ衣装(約2,500万円)が盗難にあうなどのニュースも大々的に放送されたものでした。その年は2年連続で「全日本有線放送大賞」グランプリを受賞し、「いいわけ」で「第47回NHK紅白歌合戦」に2年連続出場しています。
主なシングル曲
などなど沢山の曲が世の中に放たれました!
各賞のの受賞歴
- 1991年:第2回NHK-BSヤングバトル全国大会 グランプリ(ラーメン大好き小池さんの唄)
- 1995年:第28回全日本有線放送大賞グランプリ(ズルい女)
第37回日本レコード大賞 優秀作品賞&編曲賞(ズルい女)
第28回日本有線大賞 有線音楽優秀賞(ポップス部門)&最多リクエスト歌手賞(ズルい女) - 1996年:第9回ザテレビジョンドラマアカデミー賞 主題歌賞(『いいわけ』、ドラマ『Age,35 恋しくて』主題歌)
第29回全日本有線放送大賞グランプリ(涙の影)
第38回日本レコード大賞 優秀作品賞&編曲賞(いいわけ)
第29回日本有線大賞 有線音楽優秀賞(ポップス部門)&最多リクエスト歌手賞&グランプリ(涙の影) - 1997年:第11回日本ゴールドディスク大賞 ベスト5アーティスト賞&アルバム賞(ポップス部門)「シングルベスト10★おまけつき★」
- 2001年:第39回ゴールデン・アロー賞音楽賞を受賞
などなど数えきれない賞を受賞しているのです!
*2001年4月、芸能活動、プロデューサーとしての活動での名前を「つんく♂」と改名する。
作詞作曲する際の名前は「つんく」のまま。
年度毎の活動まとめ
1996年:
アルバム「シングルベスト10 おまけつき」がミリオンヒットを記録。
シングル「涙の影」、アルバム「GOLDEN Q」がオリコン週間1位を獲得。8月にライブツアー’96夏の乱「桃色頂上作戦」を開催し、他のライブツアー含めると年間通して8日間の日本武道館公演を開催した。
1997年3月:
大阪ドーム完成記念「シャ乱Q凱旋コンサート」を開催したほか、メンバーのしゅう、たいせー、まことがユニット「スーパー!?テンションズ」を結成し、CDリリースやテレビ出演などの展開を行った。
主演映画「シャ乱Qの演歌の花道」が公開され、映画主題歌「パワーソング」で「第48回NHK紅白歌合戦」に3年連続3回目の出場。また、オーディション番組ASAYANにてプロデュース活動を開始した。
1998年:
プロデュース活動として、はたけは平家みちよ、つんくはモーニング娘。を担当した。
12月、しゅうが同棲中だった未成年女性への暴行を起こし書類送検。決まっていたメディア露出は4人で行われた。
後日、脱退を正式発表し、メンバー内のユニット「スーパー!?テンションズ」も解散した。
1999年:
「君は魔術士?」のリリースと10周年記念ライブは、急遽4人編成で行われ、以降の活動を白紙とし、メンバーは主にソロ活動を行った。
以降、つんくはソロ歌手及びモーニング娘。
を始めとするハロー!プロジェクトのプロデューサーとして活動。
はたけはHOUND DOGの鮫島秀樹らとともにRose of Roseを結成。
たいせーとまことは、ボーカルに大西さちこを迎え、east cloudを結成した。
2000年3月:
「ラーメン大好き小池さんの唄」のリメイクである「新・ラーメン大好き小池さんの唄」をリリースし活動再開し、8月にはライブも開催した。
アルバム制作中に音楽の方向性に違いが生じたこと、話し合った結果 12月に「休憩」と称した活動無期限休止を発表した。
それ以来、活動再開後を含んでTVガイドタレント名鑑は少年隊同様、グループとしてではなく、個々で表記している。
2000年12月:
シャ乱Qの活動を休止。翌2001年4月、芸能活動、プロデューサーとしての活動での名前を「つんく♂」と改名する。
作詞作曲する際の名前は「つんく」のまま。
2001年 – 2004年:
つんくはプロデュース活動や、バンド「THE つんくビ♂ト」を結成したり、セルフカバー曲を中心としたソロ活動を展開し、2001年に芸能活動の際のクレジットを「つんく♂」に改名している。
はたけはギタリストやプロデュース業を継続し、まことはドラマー活動と並行してハロプロのコンサートの司会などの活動、たいせーはタレントとして、それぞれソロ活動を行った。
2004年から2006年:
モーニング娘。や松浦亜弥などの提供曲のセルフカバーや、自身の青春時代の思い出の曲をカバーした3枚のアルバムをリリースし、ライブやディナーショーを開催。
2006年4月3日:
放送の『HEY!HEY!HEY! MUSIC CHAMP』(フジテレビ)の出演でシャ乱Q活動を再開。
ライブや音楽番組への出演を精力的に行い、軽妙なトークが受け「HEY!HEY!HEY! MUSIC CHAMP」では、つんく♂が「浜田雅功に頭をどつかれると売れる法則」を提唱した。
2006年4月24日:
プライベートでは、博多華丸の仲介で12歳年下の元モデル出光加奈子とお見合い。6月8日、婚姻届を提出し入籍した(婚姻の理由などについて、これ以上の詳細は非公開としている)。挙式は、同年8月10日、西本願寺にて仏前形式で行われた。
同年10月1日、総合エンターテインメント事務所「TNXティーエネックス株式会社」を設立。
ゲームソフトリズム天国などのプロデュースを手掛ける。
2006年4月2日:
エプソン 品川アクアスタジアムにて行われたイルカショーにて、同施設の1周年の祝賀イベントにメンバー全員が集結した。
記者会見を開き、シャ乱Qの活動再開の発表に加えて、たいせーが「たいせい」に改名することを発表した。
同月放送の「HEY!HEY!HEY! MUSIC CHAMP」にて活動休止後初のテレビ出演。
10月には約6年ぶりとなるライブを敢行し、11月にはモーニング娘。のカバー曲を活動再開後初のシングルとして発表し、12月にはディナーショーを行った。
2006年はプライベートでも仕事の面でも特に忙しい年になったようですね!
2007年:
表立ったバンド活動は、テレビ番組に何本か出演した以外は、12月にクリスマスディナーショーを行い、第49回日本レコード大賞で『ズルい女』を披露したのみであった。
2009年:
結成20周年となったが、3月に公式ファンクラブ「CLUB QUE」が、つんく♂独自のファンクラブ「天然音泉」の立ち上げに伴い解散した。
2013年:
結成25周年を迎え、東京都渋谷区のライブハウス「Shibuya eggman」でメンバー4人が記者会見を行い、本格的な再始動を発表。
7年ぶりとなるライブツアーの実施や、代表曲「シングルベッド」を再レコーディングすることなどが発表された。
7月17日に約6年半ぶりにセルフカバーシングル「シングルベッド」をリリースした。
2013年8月 – 9月:
「シャ乱Q 結成25周年記念ライブツアー 2013 秋の乱〜シハンセイキ伝説〜」(8月31日・Zepp Tokyoとうきょう、9月6日・Zepp Nagoya、9月7日・ZeppNambaなんば大阪、9月14日・仙台イズミティ21、9月21日・中野サンプラザ(追加公演))に出演。
2013年9月21日:
東京・中野サンプラザで行われたシャ乱Qの結成25周年記念ツアーの最終公演が最後の歌唱となった
つんく♂の癌の公表
2014年3月6日:
つんく♂が喉頭がんを患ったことを公表しました。
7~8年前から声帯左側に違和感があり、日々手探りで仕事をしてきたが、2013年10月頃から更に声がハスキーになり、2014年2月に全身麻酔をし手術で細胞を取り検査したところ早期の癌が見つかったとのこと。
すぐに治療に入り、最初は抗がん剤治療で寛解すると聞かされていたそうです。
9月25日、いったん「完全寛解」を発表しましたが、がんが再発見され、10月上旬に手術を受けていたことを10月17日に明らかにしました。
その頃には癌が大きくなっていて呼吸をするのも辛い状態だったといいます。声帯を残す選択さえ考える余裕が無いほどの状態だったそうです。家族のためにも「一番に生きることを選択した」と語っていました。
どんなに怖かったか、想像するのも難しいですが小さいお子さんのこと、奥様のこと家族のことが心配だったでしょう。
そしてボーカリストして声を失うことは何よりも悔しかったのではないかと思います。しかしつんく♂は手術後のリハビリを楽しみながら行っていたと、その後のインタビューの中で話されていました。
教える側になってから長らく経って、今度は教えてもらう側になり褒められることの嬉しさを感じたと話しています。どこまでも前向きなつんく♂には本当に元気を貰えていると感じます。
抜粋元 Wikipedia
シャ乱Qの思い出とまとめ
2013年本格的な再始動を発表をした翌年の癌の発覚。そのショックはメンバーもファンもそれは言葉にならなかったことでしょう。
何よりつんく♂本人は複雑な思いを抱え苦しんだでしょう。あっという間の出来事で私など何が何だか分からないという感じでした。
私にとって第二の青春の数ページを飾るシャ乱Qの曲はどこにいても常に流れている曲で日常の一部でした。カラオケに行けば誰かが必ず歌う曲でもありました。
いつも当たり前に耳にしていた曲や声が聴けなくなるということがこんなにも寂しい感情を生み出すのだということに初めて気が付いたように感じます。
今の当たり前は決して当たり前ではないことを、もっと心に刻みながら生きていかなくてはならないと感じています。
人はどうしても慣れてしまいがちですよね?
今ある幸せを楽しみを十分に満喫しながら感謝の心を忘れずに生きましょう‼
プロフィール
つんく♂(1968年〈昭和43年〉10月29日 – )
日本の音楽家、作詞家、作曲家、実業家。
総合エンターテインメント事務所TNX株式会社の代表取締役社長。
公式サイトでは自身を「総合エンターテインメントプロデューサー」としている。
概要生まれ: 1968年10月29日 (年齢 56歳), 大阪府 東大阪市
配偶者: 出光 加奈子 (2006年から)
音楽グループ: シャ乱Q (1988年 – 2015年)、 ココナッツ娘。
学歴: 近畿大学 東大阪キャンパス、 近畿大学附属中学校
身長: 170 cm
記事元 オフィシャルサイト